うちには0歳と4歳のこどもがいます。
生まれたての赤ちゃんと、少年にさしかかった小さな人と。
そのどちらの成長も見ていて面白いのですが、今日は後者のお兄ちゃんのお話です。
4歳の悩み
自宅の窓から、遠くに葬儀場の看板が見えます。
最近、息子がその看板を見ては「こわい」と言うようになりました。
「死んじゃうところだから、こわい」と。
「死んじゃうところ、じゃないよ? 死んじゃった大切な人に、ありがとうとかさようならとかを言うところだよ」
と教えると、息子はわたしをじっと見て
「おかあも使う? おかあも死んじゃう?」
と聞きました。
そりゃいつかは死んじゃうけど、キミの学校に行く姿や成人式や結婚や孫まで見届けたいぞ?
「大丈夫だよ。まだまだ死なないよ」
息子の真剣な瞳に笑ってそう返しながら、ぎゅっと小さな身体を抱きしめてあげました。
先日のこと、慌ただしく保育園に行く準備をしながら息子がポツンと言いました。
「・・・〇〇くんが、ぼくをイヤダって言うの」
〇〇くん、はクラスの中で自己主張の強いリーダータイプの男の子。
つい最近までとても仲良く遊んでいたはずの友達です。
「そうなんだ?」
相づちをうつと、息子は首をかしげてしばらく黙り、再び口をひらきました。
「話しかけても、イヤダって言うの。キライって言うの」
そして、次の言葉がわたしの心に朝から刺さりました。
「ぼくは好きなのにな」
誰かに嫌われたり悪口を言われたりしたら、多くの場合わたしは「自分だって嫌い!」と思うことで、必要以上に傷つくことを回避します。
わたしのこの行動は無意識の行動で、たぶん小学校とかそういう小さな頃からそんなふうに生きてきたような気がします。
だって、自分はすごく好きなのに相手から拒絶される、なんてとても悲しくて耐えられない。
それならいっそ、自分も嫌いだって思ってしまえば、相手が何て言おうと知らんぷりできる(はず)。
そんな当たり前の自己防衛を4歳の息子が軽々と放棄し、自分が好きなものから拒まれる理不尽を、その小さな身体で受け止めているのです。
もともと仲の良いクラスなので、こういったこども同士の「好き嫌い」はあっという間に上書き更新されて、1週間もすればまた仲良しに戻るのでしょう。
それでも「未来や予想」なんかハナから頭になく「今を生きる」こどもにとって、今イヤダと言われることは、本当に本当に辛い出来事なのだと思えます。
こんなとき、何と声をかけてあげていいのかわたしにはまだ分かりません。
原因を聞いても「分からないんだー」と答え、泣くでもなく、怒るでもなく、ただ首をかしげている息子に
「好きなのに、寂しいよねえ・・・」
とだけ言って、頭をぽんぽんなでてあげるくらいしかできませんでした。
夕方帰ってくるころには、〇〇くんと遊んだ内容をニコニコ話してくれることを期待しながら。
仲良しに戻ったとき、きっと息子の心の中には「なんで昨日までイヤダって言ったんだろう?」とか「ぼくは悲しかったんだから謝ってほしいな」とか、そういうちっぽけな感情は微塵もなくて、「〇〇くんと遊べて嬉しかった!」という温かな思いだけで満たされているのでしょう。
息子の身体はまだ小さくても、その心はわたしのようにガチガチに守り固めたものよりも、ずっと大きくてずっとしなやかなのだなあと感じます。
「してあげる」よりも「寄り添う」時期
それにしても、とわたしは息子を保育園に送り出したあと、残された0歳の娘を見つめながら思いました。
それにしても、なんて大きくなったんだろう。
ついこの間までは、娘と同じようにベビーベッドにコロコロしていたのに。
あっという間にお座りして、両足で立って、よたよた歩きだしたら、走り始めて、気づけば軽々坂道を登っていく。
ラップを切るピリッという音が怖くて泣いていた赤ちゃんが、もう死ぬとかさよならとか、そういう漠然としたものを怖いと感じられる歳のお兄ちゃんになっていました。
好きなおもちゃの取り合いをしても、「取り合っているおもちゃ」ばかりを見ていたのに、今は「取り合いをしている相手」をしっかり見つめるようになっていました。
大きくなったなあ。
いつこんなに大きくなったんだろう。
同時に、母親としての自分の「悩み」の質も変わり始めています。
いつ寝返るかな?
いつ歩くかな?
ボタン電池食べちゃダメよ。
離乳食が進まない・・・
と、すべて息子に向かっていた悩みのベクトル。
それが、友達とうまくいってるのかな、なんて息子の見ている社会にもベクトルが向かっていくようになったのです。
やがては、進路や恋愛など、息子が選び取る道に対する親の悩みも出てくるのでしょう。
小さなころは、わたしが何とかしてあげられた「悩みの種」。
大きくなるにつれて、息子自身が解決していかなければならない「悩み」となり、親であるわたしは手出しできずに、ただ見守るしかできない「悩みの種」になります。
今はたぶん、「何とかしてあげられるところ」と「見守るべきところ」の、ちょうど中間点。
この時期の親は安全地帯、とはよく言ったものです。
イヤダという友達も、死への漠然とした恐怖も、きっと息子はそのたくましい心で乗り越えていくのでしょう。
けれど、その途中では悔しくて泣いたり、どうしていいか分からずに迷ったりするはずです。
そんなとき、親であるわたしはいつでも抱きしめてあげられたらいいなあと思っています。
失敗したって、怖くたって、うちに帰ってくればママがいる。
そう思ってくれたら、悩みに直接アプローチできなくても、十分寄り添えるのではないでしょうか。
息子自身が抱え始めた悩み。
それは成長の証だけれど、親にとってはハラハラするのにやってあげられることが少ない、というジレンマの始まり。
きっと、親のほうも大きくどっしり構えられるよう成長していく時なんでしょうね。
大きくどっしり抱きしめられる親になるために、今はオロオロしながらでも抱きしめてあげよう。
・・・ああ。
だけど、できたらうちの可愛い息子に「キライ」とか言わないで欲しいなあ。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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